生い立ち

幼少期

寝屋川の自然の中で

私は第二次ベビーブーム真っただ中の1973年生まれ、団塊ジュニア世代として進学、就職などすべて厳しい競争のうちに育ちました。
住まいは大阪と京都のほぼ真ん中にあるベッドタウン寝屋川市にあり、たくさんの民家が軒を並べるのはもちろん、池や公園など男の子が元気に走り回れる遊び場に事欠くことはありませんでした。一緒に遊ぶ友達もたくさんいて、ため池でザリガニを釣ったり、空き地で野球をしたり、草原でコオロギを捕まえたり、雨さえ降らなければ、毎日屋外で飛び回っていたことを覚えています。捕まえたザリガニやコオロギを家に持ち帰っては、母に嫌な顔をされた覚えもあります。

家族について

私は、機械関係の小さな会社を営む父とそれを支える母の長男として生まれ、父方の祖母、そして弟の5人家族、特別に裕福でも貧乏でもなく、普通の家庭で、両親や祖母からたくさんの愛情を受けて、ごく普通に育ったと思っています。ただ一つ、父が習い事を一切許してくれなかったことは、友達の家庭と異なっていました。
父は躾には厳しかったですが優しい人でしたし、家は習い事ができないほど貧しくもなかったと思うのですが、父の子へ対する揺るがぬ想いから、習い事や学習塾に通わせてはもらえませんでした。

小学生時代

父の教え

私が小学生だった頃、スイミング教室に通うのが流行っていて、友達のほとんどが通っていました。そこで私も教室に通いたいと父にお願いしたのですが、「水泳は自分で覚えろ」と言われました。
何事も自分自身で覚えることが大事だと言うのです。同じ理由で学習塾にも通わせてもらえませんでした。そのことが良いことか悪いことかは今でもって分かりませんが、物事に対して一貫した考えを持ち、常にその考えに沿った行動を取る父だったと思いますし、私に自ら学ぶ習慣が身についたのは父のおかげだと思っています。

自ら学ぶ習慣

そんな父は、私や弟が自分で学ぶための本ならいくらでも買ってくれました。
小学生の頃の私は『世界の偉人・日本の偉人』というシリーズの本にはまり、聖徳太子、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、坂本龍馬など古今東西の偉人の伝記物をたくさん読みました。このことは医者でありながら本を執筆している今の私に少なからず影響を与えているように感じます。 
小学校時代の記憶といえば、まず運動会や遠足などの学校行事、ガンダムのプラモデル……。
学校の授業には特別な思い出がないと言いますか、授業への興味も全くありませんでした。また、両親から「勉強しろ」と言われた覚えもありません。そんな私は、そのまま地元の公立中学校に入学しました。

中学校時代

野球や読書に没頭

中学校では野球部に入部し、キャッチャーで4番という大役をいただいて、とにかく楽しい中学校生活を送りました。中学での授業でも、またしても何かの知識を得たという覚えはないどころか、まともに授業を聞いていなかったのではないかとさえ思います。

とはいえ読書は相変わらず好きで、特に常に人間にフォーカスして歴史を語る司馬遼太郎の小説が気に入って、彼の本を読みあさりました。ですから、おのずと歴史が好きになったのですが、出来事の年号を覚えたり、その時代に起こった出来事の流れを追うのが好きだったのではなく、その出来事の中で人が何を思ってどう行動したのかに興味を持ちました。例えば、1867年の大政奉還なら、それがあったことに興味を持ったのではなく、その時、徳川秀康がどう動いたか、勝海舟がどう動いたか、坂本龍馬が何を考えたか、そういったことが面白かったのです。

成績の方は中の上から上の下くらいで、自分では進学校として有名な灘高校や甲陽高校に受かるくらいではないかと勝手に思っていたのに、一度受けた高校入試のための模擬試験の判定では、全く太刀打ちできなかった結果だったのを鮮明に覚えています。だからといって学習塾に行くわけでもなく、また、その頃はすでに行きたいとも思わず、ただただ野球をやって楽しい毎日、そして、当時流行りのファミコンに夢中になっていました。

野球や読書に没頭

中学生当時の私は、将来はプロ野球選手になりたいと真剣に思っていました。
高校でも野球部に入り、できれば甲子園、そしてプロ野球で活躍しようと思っていたのです。阪神地区に生まれ育ったので、当然、阪神タイガースのファンでしたし、甲子園球場へは自転車で行けましたので、高校野球の甲子園大会中は、第1試合から第4試合まで、一日中見ていても飽きなかったくらいです。自分でも家の庭で芝生が禿げるほど素振りをするのが日課となっていました。
ところが、市の大会に出場して「あれ?」という出来事がありました。対戦した中学に並外れたピッチャーがいて、中学生なのにフォークボールを投げるうえ、投げるスピードが速くて、バッターボックスに立つとストレートとフォークの見分けがつかないのです。とにかく圧倒されました。
のちにその選手は高校野球では名の通った島根県の江の川高校に野球留学したと聞きました。そんなことがあったからか、プロ野球選手になりたいと言っているわりに、地元にある強豪校として有名な報徳学園に進学する勇気はありませんでした。

父は「塾には行かさない」と言っていましたが、一方で私が勉強しているかどうかは監視していましたので、一応勉強にも取り組み、県内でトップクラスの神戸高等学校にも手が届きそうな状態でしたが、学力では中の上の県立御影高等学校に、プロ野球選手の夢も拭いきれないまま進学しました。ただ、学業もしっかりしないといけないという心構えもありました。御影高校は1クラス平均47人で11クラス、1学年合計510人でした。1年次のクラス編成は入学試験の成績順で、私の成績は11番だったので11組に配属されたと後で聞きましたが、11組になったことで、私の一生の恩師となる千葉先生と出会うことになります。

恩師との出会い

千葉先生は英語の先生で、英語の授業ではとにかく当てまくります。1時限に一人当たり2回は当たります。50分授業で47人出席していたら、30秒経たないうちに1回は当てられます。
一方で生徒一人ひとりに親身になって考えてくれる先生で、私は大好きな先生だったということもあり「当てられたら答えられるようになりたい」と強く思って英語の予習を頑張りました。正解できると「やった!」という喜びを感じました。そのおかげで英語の成績が伸びて得意科目となりました。小学校から高校までの授業の中で、私が唯一面白いと感じたのが、千葉先生の英語の授業でした。

高校時代

ハードな練習

高校生活で最も大変だったのは、野球部のクラブ活動です。毎朝7時から朝練があって、昼休みはウエイトトレーニング、放課後も練習という厳しいものでした。部員は1学年約20人、全学年で60人ほどいるので、全員がグラウンドに入りきりません。ですから、1年生は上級生の練習開始前のグラウンド整備、その後はランニングです。野球部なのにキャッチボールもさせてもらえません。今でこそフルマラソンに挑戦している私ですが、当時はランニングが大嫌いで「なんで野球部なのにランニングしなあかんねん」と思っていました。御影高校の前を通ると今でも当時のランニングのことを思い出します。

入学してから夏までの間に一度だけ、1年生各人が好きなポジションについて球出しをしてもらって返球したことがありました。その時私は外野について1球だけホームに返球しました。入学してから夏までにボールを握ったのはその一度だけです。将来は野球の選手を目指して野球部に入ったのですから、当然レギュラーを狙っていたのに、ボールを握らせてもらうことさえ許されない立場にいることに大きな違和感を覚えました。野球部は人気で同学年には4番でピッチャーのような生徒がたくさんいました。このまま練習を続けてもレギュラーになれるかもはなはだ疑問で、また、学業にも興味を持ち始めましたので、野球部は1年の秋に退部しました。

父を説得

退部するときは本当に悩みました。厳しい父に「最後まで続けろ」と言われるような気がしたのです。実は高校に入った時に、父には「高校で野球しても卒業したらできない」と予想されていました。それでも野球がしたいということで野球部に入部したのです。一度決めたことは貫くことを求める父でしたから簡単に退部を許してもらえるはずはなく、地域のテニススクールに通う約束をして父を何とか説得しました。

初めての挫折

野球を諦めた私は、家業を継ぐことを視野に入れ、将来は理系の機械科に進もうと漠然と考えていました。しかし、理系コースのクラスに入った時に大きな壁にぶつかりました。物理です。あらゆる物事をできるだけシンプルに考えるという物理の視点についていけないものを感じました。
例えば、ボールがあるとします。物理的思考では、ボールを転がすとそれは永遠に転がり続けると仮定するのですが、そのことは現実と異なるので違和感を感じてしまうのです。あるいは、物理にはあらゆる物質の中心に点を置くという考えがあります。どんなに大きなボールであろうが、小さなボールであろうが、物体はその中心にしか存在しないという仮定をします。物理はそういった仮定ばかり出てくるので「そんなん言ったって現実と違うやん」と、どうしてもその考えに納得できず、次第に物理を敬遠するようになっていました。
後に勉強し直して分かったのですが、それらは複雑な事象をシンプルに置き換えて、そこから理論を広げるという一つのアプローチ方法だったのです。

医師を目指したきっかけ

浪人生活で見えたもの

そして、かっこいいからという理由で進学先として京都大学機械科を目指すことにしました。結果は大惨敗、もっとも受験を決めた時から受かる気は全くしませんでしたが、京大以外は行かないと思っていたので、他は受験すらしませんでした。ですから予定どおり不合格、なのにまったくと言っていいほど悔しさはありませんでしたし、当然のように浪人することに決めました。
とはいえ、「勉強は自分でするもの」という父がいます。ということは宅浪、自宅で1年間自分だけで勉強しなければならないのか……と思うと悩みました。河合塾で勉強し直したいと思い、ダメもとで父にお願いしました。するとどうでしょう、父はあっけなく「浪人するんやったら予備校へ行ってもいいよ」と言うのです。河合塾では京大理系コースに入りました。
河合塾で勉強を始めると、同じコースの仲間がだんだん医学部コースに変更しだしました。それを見ながら、私は改めて自分の進路や将来について考えました。真剣に人の生や死、自分の一生を考えた時に、医師になれば社会に貢献できるという想いが沸き上がってきました。それまでに医療に関する本も読んでいましたし、私が小学校4年の時の祖母のことも思い出しました。

小学校4年生の時、私をとても可愛がってくれた祖母が歩けなくなってしまったのです。私の家族は温泉旅行が好きな家族で、月に一度は家族で温泉に出掛けていたのですが、ある時、祖母が「歩けないから温泉には行きたくない」と言いだしたのです。私と弟は子供で事情が分からないので「温泉に行こうよ」と誘いましたが、祖母は「留守番しとく」と言うのです。今考えれば、その症状は間歇性跛行で、脚の血管が動脈硬化で詰まってしまう閉塞性動脈硬化症(ASO)という病気の症状でした。

そして、祖母は大きな病院で手術を受けることになりました。血管の詰まっている箇所に人工血管を入れるいわゆるバイパス手術です。その手術により祖母は見違えるように回復し、スタスタと歩けるようになり、再び温泉旅行にもいっしょに行けるようになりました。その時「お医者さんてすごくカッコいいな」と思ったことが自分の中によみがえったのです。祖母はそれから亡くなるまで、手術したことをとても喜んで暮らしていたことも覚えています。
これが、私が医師は他人のためになる職業だと認識した最初の出来事だったと思います。

苦手が強みに

河合塾での周囲の変化にも影響されて、医学部志望に心が傾き始め、機械科に行って家業を継ぐと伝えていた父に相談してみました。すると、父はあっけなく「家業を継がなくてもいいから、自分で考えて自分で行動しろ」と言うのです。私は父は私の跡取りを望んでいると勝手に思い込んでいましたから、本当にあっけにとられました。私は自分が家業を継ぐことで親が喜ぶと思っていましたが、父はそれを求めていたわけではありませんでした。それでも、悩みに悩んで最終的には医師を目指すことにしました。

最初は、もちろん京都大学医学部に行きたいと思ったのですが、それは全然レベルが違うというか、何年浪人しても受かりそうもありませんでした。次の選択として国公立の医学部を目指そうと思いましたが、英語と数学は何とかなりましたが、ここでまたもや物理の壁にぶつかることになります。
幸いなことに、ここで次の恩師となる別宮先生に出会うこととなります。河合塾での別宮先生の授業がめちゃくちゃ面白かったのです。先生は物理がなぜそう考えるかということを詳しく話してくれました。目の前で起こったことについて原理から出発し、それを基に理論を構築していく物理の考え方が分かったことで、理解がどんどん進んでいったのです。今まで「何でやねん」と思っていた理論がストンと私の中に入って来て、物理の成績がどんどん上がりました。今まで壁だった物理が大得意になり、模擬試験をしても得点源とまでなったのです。
今私が医師となり、こうやって生きがいを持って毎日を送っているのは別宮先生のおかげと言っても過言ではありません。一生の中で、どんな師匠に、どんな教えを受けるかは本当に大事なことだと思います。

苦手な物理を克服したことで、私は無事一浪で奈良県立医科大学に合格することができました。御影高校の千葉先生のところに合格の報告に行ったとき、先生は心から喜んでくれました。「よかったな~」と高校近くの食堂でごちそうになった大盛りナポリタンの味は今でも忘れられません。

大学時代

大学ではテニス部に入りました。テニス部に入った動機は女の子にもてそうだな……と思ったからです。一方で、大学の授業は面白くありませんでした。教授陣は、教える者として学生にどんな価値を与えようとしているのかについて、はなはだ疑問のある授業ばかりでした。私はギリギリで大学に合格したのですが、出席率では5本の指に入るくらい授業に出席しつつテニスをしていました。また、この先生は実習をどれくらい大切にするか、片やこちらの先生は試験をどれくらい大切にするかを、テニス部の先輩から情報収集して実習や試験に臨みました。

試験ではその先生の過去問題を先輩から聞いてそれを中心に勉強し、テニスで真っ黒になりながら、持ち前の要領の良さで無事に進級していきました。 大学5年生になった時に、附属病院の内科・外科・精神科・眼科・皮膚科・耳鼻咽喉科を見て回りました。専門を耳鼻咽喉科にした理由の一つに、内科的治療と外科的治療の両方ができるということがあります。もう一つの大きな理由は、最終的には開業をしようと思っていたので、耳鼻咽喉科が開業しやすいだろうと思ったことです。大学5年のこの時、すでに私には開業が視野に入っていました。自営業だった父の「大企業のサラリーマンになるのもいいけれど、ラーメン屋の屋台を引っ張るのも面白いよ」「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言った言葉の影響があります。
開業医という将来を視野に、奈良県立医科大学耳鼻咽喉科に研修医として入局しました。